とあるXのポストで、四半世紀前の米国の高校事情が少しだけ話題になっていたのを見かけました。私は四半世紀 + 12年前 (もうあと3年経って2028年になったら、リンカーン風に “two score years ago…” と言えますね) に、単身で米国の高校に留学した経験があるのですが、ブログなんてない当時の情報はインターネット上には少ないので、私自身の記憶が風化する前に思い出せる限りのことを書いておきたいと思います。
留学に至るまでの過程
そういえばどこにも真面目に書いたことがないなぁ…と思ったので、ライフログとして書いておきます。留学の話が気になる方は読み飛ばしても問題ありませんが、少しだけ関係がある内容もあったりします (米国国籍を有しているという点)。
出生〜小学校進学
実は私の出生地は米国ニューヨーク州ニューヨーク大学病院です。当時の両親が仕事の関係で現地に駐在していたためです。米国は米国内で生まれた人に国籍を与える国 (出生地主義) なので、私は今でも米国国籍を持っています (本当はなんとかすべきなのでしょうが、手続費用が$2,350 ($1 = ¥150として35.25万円)なので放置)。ちなみに日本の場合は、子の父が日本人の場合 (1971年当時、1985年以降は両親のどちらでもOK) に日本国籍を与えるという、血統主義を取っています。
私が現地にいたのは2歳半までなので、現時点で英語はなにひとつ覚えていませんが、人生で初めて話した言語は英語で、今でもサ行の発音がちょっとおかしい (歯と歯の間に下を挟む、英語で言うthの発音に無意識でなってしまう) のはその名残のようです。
小学校時代
縁あって、小学校は東京学芸大学附属に行きました。今のようなお受験などない時代で、たまたま幼稚園で仲が良かった子が受けるということを耳にした親が、一緒に受けさせることにしたそうです。勉強・面接対策は一切しなかった一方で、体力テストとしてボールを投げさせられるという話を聞きつけ (当時はもちろん口コミしかない)、公園でその特訓だけはしたそうです。
1次はその体力テスト + 筆記試験、2次はくじ引きでした。1次の筆記の受験会場は昔で言う視聴覚室のような部屋で、吊り下げられたテレビに試験官が写っていて試験を進行していたこと、3つの消しゴムを手に取って、一番重い消しゴムにマルをつける問題が出たこと (自分は汽車の絵にマルをした) だけは今でも覚えています。
2次のくじ引きは講堂のようなところで行われて、学校の関係者が引いた番号を先頭として、そこから定員分の人数が合格になるという変則的なものでした。私はギリギリ最後の方の番号で通過したそうです。もとも、当時の自分はそのくじ引きの意味を理解できず、意味もわからず何かがもらえると思って喜んでいたそうですが。
小学校時代のことでここに特筆すべきことはありませんが、中学年でゲームウォッチ (1980年4月発売)、ルービックキューブ (1980年7月発売)、チョロQ (1980年12月発売開始) などがクラスで大流行し、その後、ファーストガンダム (1981年の再放送 + 映画3部作あたり)、高学年でファミコン (1983年7月発売) の登場をリアルタイムで体験しました。小学校はバス通学でしたが、運賃は当時大人70円 / 子供40円だったと記憶しています。
中学生時代と進学
東京学芸大学附属の小学校は東京都内に4校ありましたが、いずれも内部進学で附属の中学校エスカレーターで進学できました (特に理由がない限り原則全員だったはず)。しかし、中学から厳しい受験戦争をくぐり抜けてきた中学受験組 (外部生) が加わり、勉学面での環境は激変しました。当時の学芸大学附属中学校の偏差値は御三家に次ぐレベルで、特に倍率は脅威の40倍超でした、その超難関を潜り抜けてきた外部生はとにかく優秀で、御三家を蹴って来るレベルだったとか…
そのような受験エリートと、受験を潜り抜けていない内部生とでは、勉学面ではほとんど勝負になりませんでした。当時は通信簿も絶対評価ではなく相対評価の時代 = 評価の各段階の割合が決まっていたので、私の成績は5段階評価でほぼ3か2でした (1も何回か取ったはず)。3年間を通じて一度だけ、技術の期末筆記試験で100点だったことがあったのですが、実技がついてこなくてそれでも4で、その4が中学3年間で唯一の4でした。
小学校もそうですが、公立のように同級生 = 同じ地区の子供ではなかったため、”地元の友だち” と呼べるような関係の友達はほとんどいませんでした。そもそも自分の家から徒歩圏内に住んでいる友達自体がほとんどおらず、遊びに行くにしても電車やバスで行き来していました。
中学校から付属の高校へ、内部進学で上がるエスカレーターは “一応” あったのですが、小学校・中学校が4校あるのに対し、高校は1校しかなかったため、必然的に狭き門でした。外部生の多くはそのまま進学できたようですが、少なくない内部生が高校に上がれず、必然的に受験へと向かいました。もちろん私も、受験組になりました。
高校受験では、県立1校と私立3校を受験しました。とはいえ、上記の通り内申点が絶望的だったので、県立は諦めモードで、試験の手応えはあったのですが予想通り見事に落ちました。結果的に進学先となった日大櫻丘以外に受験したのは、海城と桐光学園でした。桐光学園は今でこそ名が通っていますが、私が受験した1986年の前年に理数科が新設されたばかりで、少なくとも今ほどの知名度も偏差値もありませんでした。海城は今も昔もかなりの難関校ですね。
ちなみに学校以外の勉強はというと、小学4年生の終わりにTAP進学教室 (ここからスピンアウトしたのがSAPIX) の入塾試験を受けて通ったこと (結局行かなかった)、公文に方程式の課程くらいまで通ったことは覚えていますが、高校受験に際して何処かに行った記憶はありません。逆に言えば、上記のような成績を取っていた内部生であっても、偏差値がある程度ある高校を受験できるレベルにはあったということになるので、内部生も世の中的に見ればそこそこだったということなのでしょうか。
高校1年生終わりに訪れた転機
ようやく本題に近づきつつありますが、日本大学櫻丘高等学校 (以下日櫻) に進学したのは1986年4月でした。日櫻は当時としては (多分今でも) 珍しい男女別学で、同一敷地内に男女がいるものの、クラス編成などは完全に男女別でした。選択科目の人数の関係で、極稀に男女混合のクラスが編成される場合があったと記憶していますが、実質男子校に近い雰囲気でした。
良くもなく悪くもない、という程度の成績で高校1年生を終えつつある頃、高校2年生以降で文系か理系かの選択に迫られました。私はどちらかといえば理数系のほうが得意だし興味もあったのでそちらに進もうかと思っていたのですが、ここで思いもよらぬ留学の話が持ち上がります。私の親が1960年初頭にAFSによる交換留学 (本人は横浜港に係留されている氷川丸で渡米したそうです) を経験していたのですが、当時のホストファミリーの方が来てもいいと言ってくれたのです。私は米国籍を有しているので米国の公立高校に通えば学費は不要というのもありました。
当時留学自体が珍しかったこと、留学した時点で留年が決まること (当時は単位交換の制度がある高校は少なかった)、そもそも日櫻は普通に在学していれば基本的にエスカレーターで日本大学に進学できるので前例が皆無だったことなどがあり、当時の担任には大いに反対されました。最終的に私の親が高校に乗り込んで言い負かして、高校2年生の夏 (1988年8月) から1年間、親がお世話になったホストファミリーの家に滞在する形で米国の高校に留学することとなりました。
留学準備
インターネットで世界中が繋がっており、また日本に観光客が押し寄せている今とは異なり、1988年当時はそもそも海外の人を町中で見ることはほぼ皆無で、外国の様子もテレビなどを通じて知るのがせいぜいという時代でした。冒頭の繰り返しになりますが、その当時の情報はインターネット上にはほとんどないので、ここで記憶にある限りのことを書いてみたいと思います。
パスポートの準備
米国に行くとなると、当然パスポートが必要になります。私は日本と米国両方の国籍を有していたため、日米両方のパスポートを取得しました。日本から米国を訪れる場合、90日以内であればビザを免除するという仕組み (Visa Waiver Program) が現在はありますが、これに日本が加えられたのは1988年12月で、私が出発した1988年夏の時点では、観光目的であっても米国に入国するにはビザが必須でした。このため、夏休み前ということもあり、当時の米国大使館にはビザ取得申請希望者が長蛇の列を成していたのですが、私はパスポートの更新 (2歳半で出国するときに作成したものがあった) だったため、行列を横目に別の入口から入ったことを覚えています。
改めて確認したところ、パスポートの更新には色々面倒な手続きや提出書類があるようで、今にして思えばよくこれを事前情報ほぼ皆無でクリアできたなと思います。今でも覚えているのは、窓口に書類を提出した後に宣誓を求められたことです。窓口の人も私が英語が話せないことを感じ取っていたようで、優しくゆっくりとした英語で “私が言った言葉を繰り返して” と言われ、なんとか宣誓の言葉を紡いだことは今でもよく覚えています。
持っていったもの
衣服など日常品以外で現地に持ち込んだものとして、今でも記憶にあるのは以下の物品です。ちなみに当時の為替レートはおおよそ$1 = ¥134で、直近だと2023年4月頃のレートと同じでした。高度経済成長 = バブルを迎える前で、たとえばサラリーマンの給料は今よりもかなり低い水準だったはずなので、体感的なレートはもっと円安だったんだろうと思います (当時はそんなことは考えていませんでしたが)。
日本を紹介するための参考文献
親に強く言われて持っていったのが、日本を紹介する辞書的な書籍 (日英併記) でした。書籍名はもう忘れてしまいましたが、前述のように日本人が外国人のことを知らなかったのと同じように、米国を含む海外の人々も日本もほとんど知らない時代で、絶対に聞かれるからということで親に持たされました。深い青色のしっかりしたソフトカバーの装丁で、数百ページくらいはあったと記憶しています。
1984年の映画ベスト・キッドの影響で、真剣に日本人はみんな空手ができる思っている人がいたり (発音はKA-RA-TEではなくKU-RA-RIだった)、真剣に忍者が日本にまだいると思っている人がいました。今から考えると笑い話にしか聞こえませんが当時の米国の、特に日本人が一人もいないような田舎はそのような感じだったで、大いに役立った記憶があります。
電子システム手帳
今でも型番まで覚えていますが、シャープが1987年に発売したPA-7000と、そこに挿さる英和・和英辞書のカードを、こちらは自分で買って現地に持っていきました。本製品は電子システム手帳のごく初期の製品の一つで、その後就職活動のときには同じくシャープのZaurus (PI-3000)を、会社に入ってからはIBMのWorkpadやソニーのCLIE (これは自宅の何処かにまだ転がっているはず) を愛用するなど、自分の電子系ガジェットの入口になった製品でした。
今からは考えられないほど低機能ではありましたが、少なくとも紙の辞書を引くよりは早く意味を調べることができたので、大変重宝した記憶があります。カードも何枚か持っていたと思うのですが、語学関係以外のカードで何を持っていたかは記憶の彼方です。
トラベラーズ・チェック (TC) ($1,000分)
渡航に際し、1年分の小遣いということで親にもらったものです。当時の日本は大人まで含めて基本的にすべての店頭決済は現金で、子供にクレジットカードをもたせることはおそらく不可能だったと思います (現在なら、留学する高校生に家族カードを持たせることはできるはず)。とはいえ、大金を高校生が持つのも物騒ということで、TCになったと記憶しています。
当時は海外旅行でTCを使うというのはそれほど珍しい話ではなく、米国の片田舎の店舗でも普通に受け取ってもらえた記憶があります。今でもあるのかなと思って調べたら、2014年を最後に発行が停止されたそうなので知らない人も多い、というか、今となっては知っている人の方が少ないでしょう。
日本の小説 (文庫本)
これは親が持たせてくれました。日本語を忘れないようにする….といえば大げさかもしれませんが、実際に自分が持ち込んもの以外の日本語は皆無の世界だったので、暇な時に手にとって、何度も読み返しました。持たされた本は今でも覚えていて、五木寛之の『青春の門』と、新田次郎の『武田信玄』でした。これがきっかけとなる形で、帰国後に日本史の勉強がてらに司馬遼太郎の『竜馬がゆく』『十一番目の志士』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』などに手を伸ばし、日本史で幕末が得意中の得意となったのはいい思い出です。
留学中について
滞在先 = 親が留学したときの滞在先で、お世話になる高校 = 親がお世話になった高校ということで、そこは選択や迷う余地は全くありませんでした。場所はウイスコンシン州にあるエルクホーン (Elkhorn) という、当時人口が5,000人弱 (街に入口にあった道路標識に、人口4,705人と書かれていたはず) の小さな町でした。Wikipediaでみると現在は1万人以上が暮らしているようなので、この35年でずいぶん大きくなったなという印象です。”Elkhorn” はありふれた地名で、カナダや米国の数十か所に同名の地名があります。
地図で場所を見ればわかりますが、公共交通機関などで行くことができるような場所ではなく、私が行ったときもホストファミリーがシカゴ空港までの120km (向こうの感覚からすると大した距離ではないらしい) を車で迎えに来てくれました。私が1988年に行った時点で、私の前にこの町を訪れた日本人は私の親だったらしく、私の後にこの町を訪れた日本人は誰もいないか、いてもごくごく少数でしょう。
留学先の高校生活の思い出
私の留学先となったのが、Elkhorn Area High Schoolという、現地の公立高校でした。スクールカラーは黄色と紫で、卒業式のときに羽織るガウンなど、とにかく様々な行事でこの色が利用されていました。ちょっと派手な組み合わせですが、私は今でもこれらの色が好きです。簡単には語り尽くせないほどいろいろなことがあったのですが、思い出せる限りで書いてみたいと思います。
下級生や同級生
私は日本の高校2年生の夏に日本を出発したのですが、米国の1年は基本的に9月に始まって7月に終わるので、留学先では高校3年生として扱われることになりました。日本は小学校6年間 / 中学校3年間 / 高校3年間のいわゆる633制でそれぞれに学年がありますが、米国は624制で、高校には9年生〜12年生が在学していました (高校までが義務教育なので、学年は通しでカウントする)。9年生からそれぞれFreshman, Sophmore, Junior, Seniorと呼ばれて、私はこのSeniorに入ったということになります。
米国の高校は日本で言えば大学に近く、学年ごとの必修授業 + 自分で選ぶことができる選択授業で構成されています。この必修も結構緩やかで、例えば私は留学先でSeniorの国語について行くことは不可能と判断され、Juniorのクラスに入りましたが、それでもまったく歯が立ちませんでした。逆に数学は超できるという扱いになり (一応微積までやっていたので)、Precalculusという一番難しいクラスに突っ込まれました。しかし、数学は数式や図形などがあるので文章はわからずともなんとかなったため、こちらは意外となんとかなった記憶があります。
ホームルームとか学年単位で動くイベントがあった一方で、上記のような選択性の授業は複数学年の人が入り乱れるので、あまり上級生 / 下級生を意識する場面はなかったと記憶しています (結果的に同学年の人と話す機会が多くなるのは事実ですが)。実際、私が当時一番仲が良かった学生は、Sophmoreでした (見てられなくて積極的に話しかけてきてくれたのだとも思いますが)。
海外に行くとよく日本人は童顔だと言われますが、同級生で顎髭・頬髭まで生やしている髭達磨もいたので、全くその通りでした。私は留学した時点で (今でもほぼ同じですが) 身長182cmと、日本人としてはかなり大柄な部類に入ると思いますが、米国では平均身長よりちょっと高い程度で、もっと背が高い高校生 (190cm+) は普通に見かけました。また、身長170cmと小柄なのにダンクシュートができるほどのバネを持っている学生とか、とにかく体格も中身も日本人とは大違いで世界は広いということを実感しました。
印象的だった授業
現地の高校にはとにかく面白い授業がたくさんありました。日本の高校とは違い、米国の高校の目的は “社会に出て生きてゆく力を身につける” ことにあるとされ、特定の職業に就くために必要とされる専門知識を学ぶ授業がいくつもありました。それらを中心に、実際に私が履修した授業をいくつか紹介します。
授業は大きく分けて全員向けの一般教養、進学希望者向けの比較的高度な内容を扱う進学コース (上で紹介したPrecalculusはここに入るはず)、特定の技能の習得を目指す商業コースに分かれていて、必修の一般教養を取りながら進路に合わせて好きな授業を取る、という形式を取っていました (少なくともSeniorは)。大学と同じように進学や卒業に必要なコマ数は決まっていて、成績はGPA (Grade Point Average) で評価されました。これがいわゆる内申点であり、進学する人にとっては大きな意味を持っていたので、これを気にしながら授業を選択する人も少なくなかったと記憶しています。もちろん私は散々でしたが….
タイプライティング
商業コースの入門寄りの授業の一つです。昔はタイピストという職業があって、当時の表現だとブラインドタッチ、今で言うタッチタイプができること自体が立派な職能でした。タイプライターなんて時代遅れだと思うかもしれませんが、たとえばちょっとパソコンに詳しい人なら知っているCR (キャリッジリターン) とLF (ラインフィード) はもともとタイプライター用語ですし、今のキーボードの並び (いわゆるQWERTY配列) はタイプライターに端を発しています。
私はこの授業でタイピングを習得しましたが、その技能は今でも役に立っています。帰国後に英語の問題集を解く課題をタイプライター (親の仕事の関係で、自宅にはオリベッティの電動タイプライターがあった) でやって学校に持っていったら、大いに注目されたのはいい思い出です。
スピーチ
あえてなにかに例えるとしたら、社会人向けのプレゼン研修のようなものでしょうか。この授業を取った人は指定されたテーマに基づいてエッセイを書いて、それを互いにスピーチ (プレゼン) し、その内容について議論をしたり (そういう意味ではディベート的な要素もあったかも)、単純に座学としてスピーチのテクニックを学ぶというような授業です。
この内容が1980年代の公立高校の授業として存在していたということがすでに驚きですが、その内容もかなり実践的でした。想像に難くないと思いますが、自然科学とは異なり新たな理論が発見されるというような分野ではないので、この時得た知識やテクニックの多くは、今現在でも役に立っています。仔細までは覚えていませんが、たとえば単純に人の目を見ながら話すというところから、スピーチ内容は最初に結論を述べてから、あるいは論点がいくつあるかを挙げてから個別の内容に入るなどです。
この授業で何より印象的だったのが、一番最後の授業の時に、先生が (Mrs. Kapankeという変わった女性の先生だった) “彼はここに来た時にほとんど英語を話すことができなかった。でも半年でここまで話せるようになったのは素直にすごいと思う” と言ってくれたことです。留学中のことは今でも鮮明に覚えている場面がいくつかありますが、これがその一つの場面となりました。
Driver’s License & Health Care (確か)
学校の授業の中に免許取得というコマがあるのには驚きましたが、興味半分で取ってみました。私が通っていた高校は二期制でしたが、Driver’s Licenseは1/4コマ扱いで、同じく1/4コマのヘルスケアの授業とセットでした。日本では考えられないことですが、麻薬のこととかを勉強したのは今でも覚えています。
運転免許の取得はとても簡単で、座学で30pほどの教本を学んだら、すぐにその地区の免許センターに行ってペーパーテストを受けます。合格ラインは7割くらいで、通るとすぐに仮免許がもらえます。学校に教習用の車があって、先生 + 自分で町中を運転し、運転の経験を積みます (教習車はオートマだった)。私が住んでいたElkhornという町はとても小さな町で、信号機は町の中心1箇所にしかなく、土地が余っているので縦列駐車などのテクニックも不要で、とにかく運転は簡単だった記憶しかありません。
ある程度まで運転を習得したら、同じく免許センターに行って実地試験を受けると、そのまま免許がもらえました。取得に要した金額は当時のレートで5,000円くらいでした。一部の都市部を除けば、米国は基本車社会なので (“米国の国の花は?” → “カーネーション (Car Nation)” というジョークがあるくらい)、ほとんどの人は免許を取得するし、運転技能も習得済み (ある程度の年齢に行くと親にハンドルを握らされるのでしょう…) であるのが普通だったので、免許制度はかなり緩やかだったのかもしれません。
米国で自動車免許が取得可能になる年齢は州ごとに異なるのですが、ウィスコンシン州は16歳からでした (今確認したら、現在でも同じようです。)。私は渡米時点で17歳、帰国1か月前の7月に18歳になりましたが、免許を取得した時点では17歳だったと記憶しています。なお現地で取得したこの免許、現地で国際免許に書き換えて日本に持ち帰ったのですが、日本の免許への切り替えはできませんでした。切り替えの要件の一つに免許を取得した後に最低6ヶ月現地に居住することという条件があり、私はそれを満たしていなかったからだったのですが、これを渡米前に知っていれば真っ先に取っていただろうな….と今でも少し後悔しています (英語もままならない状態で運転免許の授業を取る勇気がなかったということもあるのですが)。
歴史
米国の高校で歴史といえば当然米国の歴史になるわけですが、紀元前から天皇の系譜がある日本とは異なり、当時の米国は建国から200年ちょっとしかない国であったため、自ずと内容はかなり細かったことを覚えています。法律の内容とかも事細かにやるのですが、内容そのものが難解であったため全く太刀打ちできなかった記憶があります。たしか米国史のスタートは Pilgrim Fathers の話からだったと思いますが、今であればネイティブ・アメリカンの歴史から始まるのでしょうか….
今でも覚えているのが、授業の一環として第二次世界大戦の再現ドラマ?のビデオを見たことです。当然そのビデオには日本が登場して、日本人が話す日本語に英語の字幕がついていたわけですが、なんの忖度もなくちゃんとした翻訳がされていたことに妙に感心したことは鮮明に覚えています。
また、授業の中でリンカーンのゲティスバーグ演説 (“Four scores and seven years ago….”) と、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアのスピーチ (“I have a dream….”) の丸暗記が課題として出され、記憶しましたが、今でも冒頭の一部は覚えています。
体育 (Gym)
体育の授業もあるのですが、一番驚いたのが男女混合だったということです。たとえばそれなりに体と体の接触などもあるアルティミットまで混合だったことはよく覚えています。授業の内容自体もバラエティに富んでいてゴルフやテニスの授業があったり、土地柄だと思いますが冬に雪が積もるとクロスカントリースキーの授業があったりと、とにかく楽しかった記憶があります。
このジムの先生がとにかく陽気な先生で、右も左もわからない私のことをよく気にかけてくれました。今でも覚えているのは、学校内で生徒同士がキスをしているところに通りがかった際に “Oh!, It’s show time!” と茶化していたことです。後で書きますが、学生同士の恋愛にはとても寛容かつオープンでした。
自習!
何を言っているのかと思うかもしれませんが、自習 (Study Hall) は選択可能な授業の一つとして扱われていました。言うまでもなく、時間数あたりの取得単位数は少ないわけですが、何を学ぶにしても現地の人の数倍の時間を要する私にとっては、貴重な時間だった記憶があります。
生徒同士の恋愛事情
上に書いた通り、私がいた高校は (おそらくアメリカという単位でだとは思いますが)、学生同士の恋愛については非常に寛容かつオープンでした。その一方で、キリスト教国家ということもあると思いますが、無宗教の日本人とは価値観が大きく異なり、一線は越えないという点は徹底されていた記憶があります。
米国の高校に留学したことがある方なら知っている (逆にそうでないとまず知らない) プロムというイベントがあるのですが、これは男子生徒が女子生徒を誘って行く学校主催のダンスパーティーでした。男性はタキシード、女性はドレスを纏って参加する場で、私は同じ時期に留学生としてフィンランドから来ていた女子学生と共に参加しましたが、タキシードを着たのは人生の中でもこの時限りです。この中で学年毎のベストカップルが生徒の投票で選出されていましたが、少なくとも当時の日本の高校では考えられないイベントでした。
英語を勉強する環境として
良くも悪くも、英語を学ぶ環境としては最高だったと思います。何しろ、同じ街の中どころか、隣町などを見渡しても日本人は私以外誰ひとりおらず、とにかくすべてを自分で英語で解決する必要があったからです。自分が持ち込んだ物品以外の日本語はなく、話す相手がいないので日本語を発する機会は皆無でした。外部との通信手段は電話しかなく、当時の国際電話料金は1分200円以上で、両親に電話することすらためらわれたからです。ちなみに電話はコレクトコール (電話版着払い) でしていたのですが、この言葉ももう死語ですね…
今でもあるようですが、近くにキッコーマンの工場があって、その関係者として現地に滞在している人が、現地に到着してすぐに一度だけ遊びに来てくれたことがあります。その時に話した日本語が現地で話した最後の日本語で、そこから10ヶ月間以上、日本の家族と数カ月に一度電話で話すのを除けば、一度たりとも日本語を話したり耳にする機会はありませんでした。
そのおかげ?もあって、自分の頭の中の思考回路は完全に英語に切り替わり、最終的に日本語を介さずに英語で考え、英語で反応できるようになりました。それどころか、もはや日本語が出なくなってしまったがために、11ヶ月ぶりに対面した日本人に変人扱いされてしまうのですが、その話は後述します。
街の様子
Wikipediaの写真を見たら、記憶に残る当時の面影とあまり変わっていないという印象を受けました。観光名所などがない米国の片田舎を訪れたことがある方はごく少数だと思います。逆に私は日本では東京近郊以外に住んだ経験がないので想像の域を出ませんが、今よりも人口や若者が多かった頃の日本の地方都市に近いのではないかと思います。
前述のとおり、Elkhornの当時の人口は5,000人弱で、現在の日本の町だとかなり小さい町となり、村だとするとかなり大きい村くらいの規模になります。おそらく日本と違うのは独立性が高いという点で、Elkhornは一つの自治区としての完結度が高かった気がします。私は滞在中のほぼ全期間を、この町の中で過ごしましたが、町中には基本的に生きていくために必要なすべてが揃っていて、Elkhorn Independentという町の新聞さえありました。
ちなみにこの新聞、もちろん毎日のようにニュースがあるわけではないので、高校で卒業式があるとそれが全卒業生の写真付きで一面トップに載るというような感覚でした。余談ですが、米国には日本における朝日 / 読売 / 毎日新聞のような全国紙はなく、基本的に新聞は地方新聞がメインとなります。日本の全国紙に一番近いのはUSA Todayですが、ドラッグストアなどに行けば購入可能、というような感じでした。
余談 : 昭和の終わりを終わる前に知る
1989年1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御しまたが、これは私の滞在先だと1月6日午後3時33分に相当しました。私はテレビのニュースで1月6日中にその事実を知ったのですが (米国でもトップニュースだった)、歴史に残るニュースを日時的には発生前に知るという、なんとも不思議な経験をしました。その翌日の1月7日のElkhorn Independentのトップニュースはこのニュースだったことを覚えています。
これは想像できると思いますが、いわゆる元号というものがある国は世界的にとても珍しく、海外の人にはそもそもその感覚がありません。私はこの事実により昭和が終わったことはわかったのですが、米国の片田舎では次の元号を知るすべはなく、平成となったのを知ったのは帰国前後でした。
余談 : 消費税を導入される前に体験する
すっかり生活に溶け込んでしまいましたが、日本で消費税が初めて導入されたのは1989年4月1日でした。今であれば商品価格と支払価格が違うのは当然になりましたが、それ以前はそこが一致していた訳で、大いに混乱があったと聞いています。米国には当時、すでに消費税 (に近い税) は存在していましたが、渡米当初は品物に書かれている金額の合計と支払額が異なるのが不思議でしたし、そういう仕組だと理解した後もなかなかなか慣れることができませんでした。しかし、いざ帰国してみたら日本がそうなっていて、逆にびっくりした記憶があります。
米国は州の力が強く、この消費税相当の税金 (小売売上税と呼ばれるらしい) は州が決定することができます。当時のウィスコンシン州の税率は記憶にありませんが、たしか6%くらいだったと思います。消費税がそういうものだ、というのはレシートを見て自分で判断したわけですが、州ごとに税率が違うという事実はその時点ではわからなかったため、別の州で買い物をして二度驚きました。
日本がどう見られていたか
1989年というと日本はバブル前夜、右肩が上がりの高度成長期の真只中の時期だったはずです。高校生という立場でそれを実感することはありませんでしたが、Japan as No.1という言葉が皮肉めいて使われたり、ジャパン・バッシングという言葉もありました。”「No」といえる日本” が発売されたのも1989年1月であり、文化的な面で日本が話題になる場面はあったと記憶しています。
もっとも、田舎では少なくとも国民感情という意味では何かを感じる場面は皆無で、とても平和に過ごせました。人口5,000人未満の町ではありましたが人種が偏っているということもなく、髪・目・肌のどれをとってもバラエティに飛んでいたと記憶しています。ただ、すべてが黒で揃っているのは私くらいで、アジア人は他にいなかったはずです。そういう意味では、逆に私が目立っていたのかもしれません。
ただ、おそらくはあまり良くない感情を持って声をかけられた場面は、特に留学初期に何度かありました。早い段階で仲良くなった友人 (とその友人たち) が意識的に私を取り囲み、そのような悪意ある声掛けから守ってくれたことは今でも覚えていますし、大いに感謝しています。
現地の娯楽
所詮人口5,000人未満の町ですし、インターネットもない時代なので、娯楽はかなり限られていました。そのためか、近隣に住んでいたホストファミリーの娘 / 婿夫婦の家に、結構な頻度で行き来していました。自分は高校生でしたがホストファミリーの孫に当たる子供は最年長者でも12歳で、モノポリーをやってコテンパンにされたり (英語で交渉などできるはずもない)、Nintendo (ファミリーコンピューターの現地名) を一緒にやったりと、どちらかといえば相手に合わせる形で遊ぶのがメインでした。
私自身が見知らぬ土地を歩くのが好きだったこともあり、意味もなく街の端まで行っては戻るということもよくやっていました。しかし、当時はGPSどころか街の地図さえなく、迷ったら終わりだったので、それでも結構ドキドキした記憶があります。小さい町ではありましたが、面積としてはかなり大きかったので、それでもかなり時間を潰せたと記憶しています。
町中にはボーリング場があったと記憶していますが、少なくとも一人でふらりと行くようなところではありませんでしたし、そもそも現地の人を含めて日常的に行くような場所ではありませんでした。冬になると大人に頼んで近隣のスキー場 (と言っても丘レベルですが) に連れて行ったりしてもらいましたが、カナダと国境を接する州ということもあり、とにかく極寒 (最低気温マイナス30度以下) で、滑っていると徐々に顔の筋肉の動きが鈍くなって行く感覚があるほどでした。
卒業式
米国の学校の1学年は、9月に始まって6月下旬に終わります。最後の時期が近づくにつれ、帰国するのではなくそのまま現地の大学に行ければ…と真剣に思ったのですが (金銭のことは何も考えていなかった)、”大学だけは (就職に不利になるので) 日本の大学を出る” というのがスポンサーであった親の方針だったので、そこは従わざるを得ませんでした。
正確な日付は覚えていないのですが、7月頭あたりに高校の卒業式がありました。前述の通り私は高校3年生に加わったのです、単位不足で卒業証明書はもらえませんでしたが、Certificate of Attendanceを頂きました。これは規定の学業プログラムを履修したにも関わらず卒業要件を満たす単位を取得できなかった人に発行される、ある意味正式な証書で、今でも自宅に眠っています。
米国のすべての高校がそうかはわかりませんが、私の高校には卒業記念グッズを専門に扱う業者が一定期間デスクを設置して、様々なものを販売していました。取扱商品には卒業式で着るガウン (最後に皆が帽子を投げるやつ) とか、卒業アルバム (Yearbook) など、様々な物がありました。その中で私は高校のリングをオーダーして持ち帰ったのですが、大学生の時にとある大学の学園祭に遊びに行った時に紛失してしまいました。これは今でも後悔しています…. (その後販売元に再オーダーが可能か問い合わせたことがあるのですが、不可能と言われてしまった)。
米国には “Senior Prank” という、卒業生が悪戯をするという伝統があり、卒業式の日に学校に登校したら、建物の色々なところにトイレットペーパーが引っ掛けられていたのは今でもよく覚えています。卒業式の後はボーリング大会(確か) → 隣町に移動して夜通しのクルーズ (これは確実、内陸地なので実施場所は地方で大きめの湖) をするなどして過ごしたのもいい思い出です。
Rockford University (IL) のサマースクールへ
7月上旬に高校を卒業した後、そのまま日本に帰っても時間を持て余してしまいます。そこで親が気を利かせてくれて (今にして思えばどうやって手配したのかと思うのですが)、ウィスコンシン州の南の隣接州であるイリノイ州にあるRockford Universityのサマースクールに3週間 (くらいだったはず) 行かせてもらいました。
ここで実に11ヶ月ぶりに日本人に会ったのですが、自分は日本語で挨拶しようと思ったのに口をついて出たのは英語で、”あ、すいません、日本語で話そうと思ったのですが…” と日本語で言おうと思ったらそれも発せられたのは英語で、それをもう1〜2回繰り返してようやく日本語になりました。そのおかげ?もあって、その人からは変な人認定されてしまったのは今でも鮮明に覚えています。インターネットがある現代だと、良くも悪くも母国語から完全に切り離された環境に身を置くこと自体がほぼ不可能でしょうから、ここまで “染まる” のは難しいのではないでしょうか。
帰国後の英語力
留学前はごく平凡な成績でしたが、上記のような環境で1年間過ごした結果、さすがにというべきか、英語についてはかなり突き抜けた形での学年1位にはなりました。当時日大の附属高校と大学をサンプリングする形で実施された英語の試験があったのですが高校では全国1位、大学を含めても2桁に入るくらいの成績を残せました (この時の高校生間の偏差値は97.5)。帰国後比較的すぐに英検二級 → 準一級は取得しましたが、1級はまったく太刀打ちできる気配がなかったので、見送った記憶があります。
受験英語という意味では、もともと平凡だったということもありますし、どちらかといえば留学で得た英語力の一部に受験に必要な能力もあった、という感覚だったので、特に単語とかは一生懸命受験用の単語を叩き込む必要がありました。それでも、予備校での成績は最上位とまでは行きませんでした (情けない)。
帰国後〜大学受験
前述の通り、日櫻は内部進学で日本大学に進学するのが王道であり、それを前提にカリキュラムが組まれていました (内部進学の試験が4科目なので文系でも高校3年まで数学があった、試験範囲の関係で日本史は明治維新までしかやらない、とか)。日大以外を目指す人は稀有で、同じクラスにもう一人しかいなかった記憶があります。私は英語 “だけ” はさすがにできましたがそれ以外はそこそこでしかなかったので、現役ではここに合格できたら万々歳 & 入試が一点突破型の大学・学部を選ぶことにしました。それが私の両親の出身校でもある 国際基督教大学 (ICU) と、当時できたばかりの慶応大学総合政策 / 環境情報学科でした。
ICUの受験を考えたことがある方ならわかると思いますが、私はICUの入試は “合格すべき人は一発で合格して、そうでない人は何度挑戦しても (他の大学の浪人より) 合格が難しい” という試験だと思っています。そして私は後者の人間だったようで、現役では前述の全てに合格できず、ICUについては浪人しても駄目でした。
浪人生活はここでは詳しく書きませんが、結果だけ書くと以下を受験して、
- 東京外国語学部英語学科
- 上智大学外国語学部英語学科
- 上智大学文学部新聞学科
- 上智大学文学部英文学科
- 青山学院大学法学部
- 成城大学法学部
- 成蹊大学法学部
- 大東文化大学外国語学部英語学科
1.はセンター試験の足切りは突破するも倍率2.1倍の2次で撃沈、4, 5, 6, 7に合格して4を選択しました。8は何故か不合格だったのですが、十分な手応えもあったし不合格の理由が今でもわかりません。”アンケートとして” 併願している大学学部を書かされたのですが、それに正直に答えたからだと今でも思っています (併願校を見て明らかに滑り止めであると判断された)。
留学を振り返って
今にして思い返しても、あの1年でまさに人生が変わったと思っています。四半世紀が経過した今でも鮮明に記憶に残っている出来事がこれだけあるという事実も、それを物語っていると思います (日櫻で過ごした3年間のことは、相対的にものすごく印象が薄い)。話をつけて送り出してくれた親、現地で受け入れてくれたホストファミリーには心の底から感謝しています。
世の中は代わり、留学の敷居は下がった一方で、実際に留学をする人は逆に減ってきたと聞いています。もし自分の子供が留学したいと言ったら私はなんとしても送り出したいと思っていますし、そのように考える親が世の中に増えるといいなと思っています (私費留学は費用面の負担が重すぎるので、交換留学や何らかの支援を受けてもらいたいとは思いますが)。